演奏会やコンクールの審査などでたまに私の作品に出会うことがある。
譜面上の要求に対して明らかに人数が足りてない団体の演奏では、「どんな響きになるんだろう」といつも興味深く聞かせていただくのだが、流れ行く音楽の中で全体の構成がしっかりしていれば、少々の音が不在であっても素晴らしい音楽になるのだなぁと関心しきり。
(不要な音を書いている、という訳ではないはずなのだけれど・・・)
自作品がよく研究されていると感じることは本当に嬉しい。
春から初夏にかけて、カットや譜面の書き換えについての相談を頂戴することが多い。
必ずしも自作品とは限らないが、そもそもの事情については重々承知しているので、可能な限り応じている。
自作品については「作曲した本人なのだからサクッと終わるだろう」と考えられてるのかなと感じるが、実はそうでもない。
人様の作品の方が気が楽であり、サクッと終わる。
自分の曲は難しい。
私情の有無なのか、責任感の濃淡なのか。
いずれにせよ、作曲家というのは譜面を通して音楽を考えがちなので、編成の書き換えというのに悩むことが多い(もちろんサクッと終わることもある)。
「3本で吹いてるとこ、2本しかいないんですよ。」
ありふれたこの程度の内容でも、時にかなり悩ましい。
カットも、どうせなら音楽的に繋ぎたい。
和声が破綻しているなど論外である。
で。
考えすぎて、色々手を入れたくなって、結果的に縦や横の必要のないところまで考え始めて・・
最終的に現場の方の直感に従う場面も少なくはなく、もはや何かの役に立っているのかどうか・・
作曲家とは一体・・。
話は変わるが、「作曲家とは一体・・」とは、世間でよく考えられている事象であるように見受けられる。
私がデビューしてしばらくの後、祖母が亡くなった。
私に関する祖母の最後の言葉は「昌樹くんはいつになったら就職するんや」だったとのこと。
ばぁちゃん・・すまん。まだしてない。
この業界に全く知己のない方に自分の仕事を説明しなければならないとき、だいたい私は「映画や舞台における脚本家みたいなもの」と言っている。
指揮者は監督、奏者は演者。
作曲家はストーリと台詞を考えているようなもので、この説明は概ね的を射ているのではないかと思う。
演者が変われば台詞が変わることもあるだろう。
上演時間の都合によってシーンのカットもあり得るだろう。
都度都度の難しさはあるけれど、承知の上で引き受けたものに関しては淡々と対応するのみである。
そして、対応した内容については、その場限りのものである。
思いの外うまくいったとしても、CDなどのメディアに残ったとしても(最近はほとんどYoutubeか)、はたまた依頼者が大変気に入ってくださったとしても・・
それでも、全てはその場限りのものである。
編成に合わせて一時的に書き換えるという行為と、楽譜として確定させるという行為は別次元の話であるからだ。
「この編成でも出来る」と「この編成としての出版譜(決定稿)を作る」は、直線的には繋がらない。
なので、基本的には譜面として残さないし、残すよう勧められてもお断りするしかない。
あくまでも「今回のケースではこうしよう」と提案しただけの話だ。
なので、私が関わっていようがいまいが、一つの作品については出版譜が全てであることをご承知いただければ幸いに思う。
その上で、必要があれば、各団の事情に鑑みて試行錯誤されることを祈っている。
無い音を足したり、順番を入れ替えたりというのはダメだよ。当たり前なんだけど、ね・・・
はてさて、冒頭の演奏動画は、私が裏方の一人として僅かに関わった一例である。
カットなどはもう決まっていたが、それに合わせて本来はない音符を入れたりはしている。
この曲をご存知の方が聞くと、どのように感じるものだろうか。
作曲者はもちろん想定していない編成であった。
良くも悪くも、自分で考えないからこそ・・という側面はあるにせよ、新鮮で面白い響きだったと言って良い。
業界ではフレキシブルという言葉をよく耳にするようになったが、元よりこの上なくフレキシブルな世界ではあったよなと思う。