My Music

『Bye Bye Violet』雑感

私の吹奏楽作品で一番演奏されているのは、『Bye Bye Violet』あるいは『恋す蝶』のどちらかだろう。

YouTube で検索してみるといろんな演奏が出てきて、本当に有難い。

どの演奏も素晴らしいのだけど、情熱を保ちながらも端正に整えられたこの演奏を。

Youtube上では唯一?のノーカット。

吹奏楽に全く親しんでいなかった時期の作品なので、スコアを見返すといくつか驚くことがある。

ド派手に聞こえるが、実はオーケストレーション自体は厚くはない

思いの外、薄い。意外な場所で、薄い。

びっくりである。

スコアを紛失したとしてゼロから新たに楽譜をおこしたら、間違いなく音符が 1.5 倍くらい増えるはず。

後々、この「薄さ」の多面性や良し悪しについてとかく悩むことになるのだけど、それはまた別のお話。

さらに、この「薄さ」によって、作曲者本人が思いもしなかった演奏をした団体があったことは先日記した通り。

深刻な時は無意識に出てくる “運命” の動機

「よし、運命の動機を使おう」なんて思いながら作曲することはない。しばらくして「あぁ」と思う程度に無意識。

「タタタター」がこんな深刻な表情を持っているのは、間違いなくこの人のせい。

その打楽器、いる?

いる。

ピアノソロありきの後半戦

ピアノはオーケストラ、吹奏楽においては編入楽器という区分に入るものだが、面白いネーミングだなといつも思う。

オケはともかく大編成の吹奏楽において、バンド全体がガンガンに鳴っている状態では、ピアノはまず聞こえない。叩きつけるように弾いて、かろうじて・・優雅さの微塵もない。

なので、管打楽器の喧騒がすっと引いた後に出てくる残影のような・・この曲のピアノ・ソロは思いの外うまくいった。

以降も味をしめて似たシチュエーションでちょいちょい使っていたのだけれど、『カラフル』では自分で弾くことになってしまい・・・(ピッコロとのデュオであったが)。

(該当箇所からの再生ですが、ぜひ最初から聞いてください)

私の書くピアノパートは難しいと言われるけれど、自身が唯一精通している楽器。

熟考しているので不可能はありえないし、何より弾きやすい(≠ 簡単)はず。

もしピアノを担当する方がこの記事を読まれることがあれば、左手の小指、薬指あたりが担当する最低音に大きな存在感を持たせて欲しい。そこに作品の主題が鎮座しているので。

さてさて、今更ながら、解説文より一部引用。

 一つの玩具がどれほどの思い出を作り上げたか、一つの芸術作品がどれほどの感情を呼び起こしたか、一人の人間がどれほどの足跡を残していったか。だから、何かを失うとき、たった一つ、或いはたった一人を失うと云うことは大凡あり得ない。必ず、同時的に手をすり抜けていくものがある。

「Bye Bye Violet」と同じ出版社から出版されている木管三重奏曲『詩曲 II』の解説文の一部分も併せて引用したい。

 大切な物が壊れたら悲しいのは、それがもう二度と自分の手のひらに乗らないから?…そうではないだろう。大切な人が亡くなったら悲しいのは、その肉体が生命体ではなく、ただの有機物になってしまうから?…勿論、そうではないだろう。

 何かを喪失する悲しみとは、失われた事物に対してではなく、自身の心のうちに視点をおいているのではないかと感じることがあります。失われるのは、私の心の一片。

言いたいことは概ね言えているかな。

そして、最後に古今和歌集より一句紹介し、この記事を終えたい。

紫の ひともとゆえに 武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る

古今和歌集(詠み人知らず)

(訳)ただ一本の紫草があるため、広い武蔵野に生えている全ての草が愛しいものに見えてくる。

大切な人を思うとき、その幸せを願うとき、その命に関わりのある周りの人たち全ての幸せをも願うことだろう。

常々思うことだが、私が感じること、思うことなんて、古代人が根こそぎ語り尽くしているものであることよ。

誠に蛇足ながら、タイトルについて。

実は全く趣の違うタイトルと二者択一で悩んでいて、音出しをしてくれた高校生の多数決によって現行の「Bye Bye Violet」となった。

世の中そんなもんである。