帝政ロシア、そしてソ連が生んだ二人のメロディ・メーカ。
酔いに酔いしれる甘美な旋律が印象的な二人だが、音楽の構造的には結構性格が違うようなぁと思う。
クライマックスに向けて単純化を目指すチャイコフスキーと、いつもそれなりに混み入っているラフマニノフ。
ある意味「いてまえ!」的なチャイコフスキーと、隙あらばあらゆるところに旋律をねじ込んでくるラフマニノフ。
美しいメロディというのはそれはもう音楽史に無限的に存在すると思うのだけれど、この二人がその金字塔に立ち得たのは、生涯にわたって和声法の原則からほとんど逸脱することがなかったからだろうか。
(逸脱しまくったラフマのライバル?、スクリャービン・・愛してる)
私は演奏家ではないし鑑賞というのもあまりしないが、たまに昔の楽曲について熱心に勉強しなければならにことがある。編曲の際だ。
基本的に私から「これ編曲します」と言うことはないので、作品についてはほぼオーダによる。
チャイコフスキーは本当に機会が多い。そして “とても編曲し易い” 。
構造的に単純なものだからいろいろ遊ぶ余白がある。
和声もいじり易いし、あの曲とこの曲を合体とかいくらでも可能性はあるし、曲想だって何とでもなるものだ。
私が編曲したもので、現在出版されているのは下の3曲。
一方、ラフマニノフには遊ぶ余白というものがあまりない。
単純に私の技量の問題というのもあるけれど、何というか旋律の土台が非常に危ういバランスで成っている。
編曲というもの、学生時代から数えると結構な数をこなしてきたような気がするが、ラフマニノフは・・たぶん2回目・・?
感想としては、やはりいじり難し。
新譜:ラフマニノフ「ヴォカリーズ」
歌詞を不要とする必然性に満ちた、本当に美しい曲。
“言葉にできない” もどかしさはピアノ伴奏にあると思う。
そして、後ろ髪を引かれまくる仄暗さは、朗々と歌い上げたい旋律をある意味無視する、あまりにも淡々とした八分音符によるものだろうか。
今回、金管五重奏に編曲するにあたって、この八分音符を捨てた(ゴメンナサイ)。
それによって得たものはアンサンブルとしての情動じゃないかと勝手に思っている。
新譜:チャイコフスキー「 “白鳥の湖” によるパラフレーズ」
生まれはトロンボーン・カルテット。
とある事情で吹奏楽に変貌し、そして金管五重奏へ。
吹奏楽版が割とよく演奏され、私自身がマーチングに書き換えたりもしているので、何というか「どこまでがオリジナルだっけ・・?」というのは大げさにしても、ちょっと混乱はしている。
いろんな楽節をパッチワークのように埋めており “遊び” というものをよくよく感じてもらえるのではなかろうか。
自分の曲では、つまり作曲では出てこないアイディアが編曲では簡単に出てくることがあって、長らく「不思議だな」と思っていたが、最近気づいた。
執着がないからだ。
何事も放下着ですよ、禅の世界。
以上の2曲3作品の取り扱い開始
よろしければ是非トライいただけますと幸いです。